芸術としての建国

                  誕生日の木と木ことば
               2・16 キャラボク 温和
 
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     林 秀彦 脚本家 この本に寄稿されています。
 
 いまさら私があらたまって書くことでもない周知の歴史だが、明治五年、紀元節が設定されたのは、”いまふう”に言えば、日本国家の国際化のためだった。
 それまでの世界の人々のほとんどは、この地球上に日本という国、それも「国家」として誕生したばかりのクニがあるなどとは、知らなかった。日本はあらゆる手段を使って、しかも一刻も早く、「ここに我あり、日本あり」と名乗り出なくてはならなかった。しかもその国は好戦的で侵略的な西欧の国々が植民の餌食として狙うような野蛮で未開の国ではなく、長い歴史と高度の文化文明を持った”先進国”であることを同時に宣伝し、それ相応の敬意と恐れを抱かせなければならなかった。つまり『国威』というものである。
 なんとも情けない話だが、いまの若者には『国威』などという概念はその言葉すら聞いたことがないかもしれない。そこで書いておくが、国威とは国の威光のことで、威光とは相手に畏敬されるような、犯し難い威厳、という意味である。人間、個人としても畏敬され、威厳を持つことは大切なことだが、国家にとってはそれ以上に存続のための不可欠な条件である。なぜなら国際関係とは食うか食われるかの「場」の意味であり、お互い禿げ鷹の集団のように弱肉強食を狙いあっている。現在の日本に「国威」がないことは言うまでもない。なぜなら国威は金で買えるようなものではないからである。
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 ところが日本は世界の奇跡のような国だった。明治国家が生まれるまで、一度として他国に侵略されたことがなく、植民地になったこともなく、また過激な独裁者のよって人民が極度に迫害されたことすらなかったのである。いつの間にか国があり、国があることはごく自然であたりまえのことであり、ふと気づくと国家に生まれ変わっていたようなものだった。「私たちはいついつこのようにして自国のアイデンティティを獲得した」と言える歴史がないのである。ところが歴史以前にはそれがある。即ち神話である。意図して神話に建国を求めたのではなく、神話以外にその根拠がない国など、世界中にないのだ。これがどれほど稀有なことであり、僥倖(ぎょうこう)であり、素晴らしいことか、いまだに私たちは深く認識していない。神話(または説話)を建国の根拠とする独立国は、現在日本以外には大韓民国の開天節しかこの地球上にない。複雑で入り乱れた歴史の流れがなく、しかも記紀という歴とした文献を持った上で建国に神話を当てた国となれば、それこそ日本しかないとも言えるのである。
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 ・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
 
  つづきは、本で。
 
 
                ご葬儀を雅楽の音で 格式高く
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