皇室とともに
徹底検証『”戦争”を選んだ男たち』幻のスパイ文書が暴く 真珠湾攻撃への道
ダイレクト出版
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西鋭夫教授の第一次資料に基づくものです。真実の歴史を学び、これまでの嘘の歴史認識を改めてこれからの日本はどうあるべきかを将来世代と共に考えて行動しなければなりません。
諒解案を作るために、野村吉三郎駐米大使、岩畔豪雄(いわくろひでお)特別補佐官・陸軍大佐、井川忠雄補佐・実務担当とコーデル・ハル米国務長官が秘密裏に会っていた。
ルーズベルト大統領もこれでいいとなり
1941年4月16日水曜日 明け方 「日米諒解案」完成
4月17日木曜日 「日米諒解案」東京の外務省(本省)に入電
「日米諒解案」には、アメリカが日中戦争を早期に終結させるため、蒋介石政権に8つの条件を勧告することが明記されており、その中には「満州国の承認」が含まれていた。
①中国の独立
②日本軍の中国撤退
③中国領土の非併合
④非賠償
⑤門戸開放
⑥蒋介石政権への和解勧告 汪兆銘(おうちょうめい)中華民国初代主席と喧嘩ばかりしていた
⑦日本の大量集団移民の中国入り自制
⑧満州国の承認
日本の陸軍、海軍も賛成
アメリカは、対独参戦を検討するにあたって三国同盟の締結国である日本の動きを警戒していた。ルーズベルト大統領は、日本と戦争したくなかった。
岩畔大佐は、三国同盟の援助義務は締約国の一国が「攻撃せられるとき」に行使されるという箇所に注目。
「日米諒解案」では、「積極的に攻撃せられたる場合に於いてのみ発動する」と書き換えた。すなわち、日本が攻撃されなかったら傍観します。
ルーズベルト大統領もハル国務長官も素晴らしいとなった。これで、三国同盟骨抜き
5月になったら近衛総理とルーズベルト大統領が密会して戦争回避できた。
ルーズベルト大統領は、ドイツからイギリスを守りたかった。日本と戦争したくなかった。最低限の妥協(諒解案)で日本との戦争を避けたかった。長期戦で米国は日本に勝てると分かっていたが、日本と戦争したくなかった。日本もアメリカと戦争したくなかった。その信頼関係で、諒解案をつくった。
真珠湾攻撃も本土空襲も焼け野原も原爆2発投下もなかった。
諒解案を潰したのは、松岡陽介外務大臣ただ一人が反対をした。それで、近衛総理は松岡を首にして自分が外務大臣を兼任して諒解案を成立させればよかった。決断ができない近衛総理だと国民は知っていた。
松岡洋介外相は、3週間反対をして米国に諒解案と違う内容を米国に送ってしまった。それを見たルーズベルト大統領、ハル国務長官は、これで終わり、あとは日本と戦争するだけとなってしまった。
昭和天皇陛下も諒解案のことを知られて、「松岡ただ一人、自分の立てた案でないものだから、反対して折角のものを挫折せしめた」と嘆かれた。
ハル・ノートの冒頭には「厳秘、一時的にして拘束力無し」と記されている。表紙の最初には、大きな字でドラフト(下書き・草案)と書かれている。陸軍、海軍は、戦争したくてしょうがないから最後通牒といった。原本を見れば、最後通牒ではないことが一目瞭然である。確認が大事である。
検定教科書を使う教育が、全国どこでも同じ教育が受けられると言われている。間違った基準ですね。これを、教育基本法に基づき教育を行うことを基準とすれば、
自由に教える
が、実現できて各教育委員会や各学校が良い教育競争が始まり、特色ある学校教育が実現する。
ぜひ、保護者の皆様方
学校へ
要望しましょう!