まんがで分かる 新渡戸稲造『武士道』

           皇室とともに

新渡戸稲造の武士道

武士道は、強く、美しく、誇り高き生き方。

1900年(明治33年)アメリカで出版、大きな反響を呼ぶ。フランス語、スペイン語など世界30か国以上で翻訳出版され、世界的ベストセラーとなる。1908年(明治41年)に和訳され、多くの日本人青年たちを魅了した。

世界の常識は、宗教教育が道徳教育であった。日本にはないことが世界では不思議。しかし、日本では、武士道精神が道徳教育であった。それは、学校ではなく家庭教育で行われていた。教育基本法第十条家庭教育「父母やその他の保護者は、子供の教育に対する第一義的責任を有する」とあります。財力も大切ですが、精神性がもっと大切なことです。身につける努力が大切です。窮地を救ってくれることにも繋がる。

「武士道」では、義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義の7つが武士の重んじた徳だった。

 

武士が最も重きを置いた価値

「正義の道理」 人として必ず守らなければならない道のこと。

義を重んじない人は、卑劣な行為をする人、不正を働く人というふうにみなされた。武士にとってとても恥ずかしいことであった。

義は「不合理の精神」とも言われ、成敗利潤を考えていたら到達できないものであるから、崇高な精神として武士たちが一番重視した。

武士以外の多くの人が「武士道=日本人として生きていくうえで美しい姿」であると共感しこの精神を守り伝えていった。庶民にも浸透した。

新渡戸稲造が武士道で伝えたかったのは、「高き身分の者にともなう義務」。それは、上に立つ者に求められる責任、国家を支える人々に求められる”公の精神”であり、「正義を貫く心」です。その根底には、儒教の「仁・義・礼」といった″良心の掟”があるわけですから、決して死を煽るようなものはない。

危機に遭っても動じない平常心

義が無ければその行動には、なんの価値もない。「義を見てせざるは勇なきなり」

「勇とは正しいことを為すこと」

武士の「勇」を形成するものは2つ。

 大胆な行動となって表面に表れる勇気

 内面に隠された何ものにも動じない心、平常心

上に立つ者に求められる徳

仁、すなわち愛、寛容、他者への情愛、哀れみの心

「仁」は人間の魂が持つ性質の中で最も気高いもの王者の徳。

人の上に立つ人は、「民の好むところを好み、民の悪(にく)むところを悪む これを民の父母という(『大学』)」という言葉を肝に命じ、下の者たちを慈しみながら接した。

仁の心を持っている人は苦悩する人、辛苦に耐えている人、弱い人々を思いやれる人のことをいう。

他者を尊重し、思いやれる心

礼を表すことは、物事の道理を尊重することだから、礼は社会的な地位を重視する。

礼は決して相手の経済状況や社会的立場によって変えるものではない。

「礼」とは心の価値 

 いかに人として立派であるかが問われるものである。敬虔な気持ちを持って「寛容

 にして慈悲深く、人を憎まず、自慢せず、高ぶらず、相手を不愉快にさせない」「自

 己の利益を求めず、憤らず、恨みを抱かない」

礼は、それ単独で存在するものではなく、仁や義と一緒になったときに初めて高い徳へとつながっていく。

礼とは、相手の心に寄り添うこと、相手を尊重すること。

嘘やごまかしを認めない誠実さ

「言」ったことを「成」す。それが、すなわち「誠」である。

武士の言葉はとても重く、証文を書くことは武士の面子を汚されること。

武士道において、最高の徳目とされた。

現代においても武士道精神の一端が受け継がれているのではないですか。

 「武士は食わねど高楊枝」

 「一合取っても武士は武士」

 「武士に二言はない」

 不正を許さない正義漢、筋を通す信念の持ち主など前向きな意味で使われているのが

 「彼はサムライだね」

名誉

武士にとって命より重い価値

「誠」を尽くせなかったことをとても恥じることは「武士道」が分かってきたからなのかもしれない。

羞悪(しゅうお)の心は、義の端(はじめ)なり。「羞悪」とは自分や他人の良くない部分を恥じて憎む心のこと。つまり、不誠実な行いをしたことを恥じて、もう、二度と繰り返すまい・・と思う心こそが人としての正しい道を守ろうとする「義」につながる。武家の子が最初に教わるのも「恥」だった。恥を知るからこそ仁義礼智信の徳目を理解し誠を行うことができる。誠を尽くせば高潔な人となり「名誉」になれる。

「名誉」という感覚には、人格の尊厳と明白なる価値の自覚が含まれている。

武士は子供が過ちを犯したら・・名を汚すな!恥ずかしくはないのか!名誉心に訴えることで教え諭した。武士の一番の恥辱は、名誉を傷つけられることだった。

支配者であり、刀という”武器”を持った責任ある立場の武士が厳しく守り続けた「武士道」。その究極の理想は、平和である。

忠義

武士は何のために生きたか

「忠義」という考え方は、武士固有のものかもしれない。

新渡戸稲造は、私たち日本人が考えている忠義は、他国ではほとんどその信奉者を見出すことはできないだろう。と言っている。武士道が間違っているのではなく他の国が到達できなかった高みにまで我が国がその考え方を進めたからだ。

武士道は、個々の利益や権利よりも「家」を大事にした。家族とは、1人ひとりが別ではない。「一心同体」の存在だと、そして武士道は個人を、さらに上の存在と結び付けた。個人とは、「社会の構成要素」である。つまり、素晴らしい国家は、心を鍛えた個人、1人ひとりがつくりあげるもの。

「忠義」の行き過ぎによって、武士道が歪められてしまった部分はある。

”忠”の本来の意味は「己の誠を尽くす」ことだから、忠義を尽くしたのは「天」に対してです。つまり、「いかに自分自身に忠実か」ということです。

新渡戸稲造、主君が間違った行いをしたら、あらゆる可能な手段を尽くして、過ちを正すべきだと。

つまり、本物の武士の「忠義」は、主君にこびへつらうことではなく主君に過ちがあれば命を懸けていさめるのが本物の忠義である。

「武士道」根底にあるもの

それは、

高き身分の者に伴う義務

である。

 

武士道だけでも、こんなにも奥が深い。学ばなければわからない。混沌とした世界を導けるのは日本しかない。国民一人ひとりが受け継ぐことが重要、未来を切り拓ける!

 

まんがで分かる 新渡戸稲造『武士道』

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教育基本法に基づく教育を行う(教育議論を行う)とは、

教育基本法 教育の目的・教育の目標・教員・家庭教育 に基づいて行うということ


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